2019年12月20日

陸耳御笠と戦った日本得魂命

 『勘注系図』八世孫日本得魂命の注記で次のように記す。
「崇神の時代当国の青葉山中に土蜘(つちぐも)あり。陸耳御笠(くがみみのみかさ)の者、その状(さま)人民(おおみたから)を賊(ぬすむ)。ゆえに日子坐王(ひこいますのきみ)勅(ちょく)をたてまつりこれを伐(う)つ。時にこの命等仕えたてまつる。余社之大山(よさのおおやま)に到り遂にこれを誅(ちゅう)す。」

日子坐王が陸耳御笠を討った伝承は『古事記』にも記される。
崇神の時代の事として『日子坐王者を旦波国に遣わし玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺すを命ず。』とする。
日子坐命という王権の皇子が、直接戦闘を指揮している。大和王権はここ若狭から東の勢力と対峙していたのである。

日子坐王や日本得魂命(やまとえたまのみこと)達と戦った相手は、陸耳御笠と、匹女(ひきめ)とよばれる一党で、場所は青葉山から由良川のほとりである。青葉山は福井県高浜町と京都府舞鶴市との境に位置する、若狭と丹後との境でもある。

この陸(くが・玖賀)こそ『魏志』倭人伝が伝える、邪馬台国と激しく争っていた、狗奴国に他ならない。
したがって卑弥呼の時代から続いていた狗奴国との戦いは、崇神の時代おおよそ三世紀後半の半ばに、大和朝廷側の勝利で決着が着くのである。


『勘注系図』の伝承は丹後風土記残欠にも記される。
どこまでが史実か検証できないが、以下にネット上の丹後風土記残欠の一部を転載する。

【川守郷】
川守と名付ける所以は、昔、日子坐王、土蜘(つちくも) 陸耳匹女(ひきめ)たちを逐って、蟻道郷の血原に到ったとき、先ず、 土蜘匹女を殺した。それで、そこを血原と云う。その時、陸耳は降伏しよう としたが、日本得玉命が川下から追って来て、まさに迫ろうとした時、 陸耳は忽ち川を越えて逃れた。それで、官軍は楯を連ねて川を守った。 矢を放つこと蝗の飛ぶが如し。陸耳の党、矢当たりて死ぬ多し。(死体 は)流れて去る。それで其の地を、川守と云う。亦、官軍の駐屯地を 今でも川守楯原と云う。その時、船一艘が忽ちに(欠字、字数不明) 其の川を降った。これで、土蜘を駆逐した。遂に、由良の港に到った。 土蜘の行方が判らなかった。そこで、日子坐王は陸地で礫を拾い、 これを占った。それで、陸耳が与佐の大山に登ったことを知った。それで、 其の地を石占と云う。亦、その船を楯原に祭って船戸神となづけた。

posted by 桂川 光和 at 14:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 丹波と大和朝廷
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第2部 卑弥呼の王宮と墓
第3部 『魏志倭人伝』に登場する人物
第4部 邪馬台国探しはなぜ混乱したか
卑弥呼の系図 卑弥呼の系図